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「弱い立場の人」はいる
「人として尊重する」「人間の尊厳を守る」。こうした発言に反対する人は、まずいません。しかし、いまだに繰り返し声高に言われているということは、世の中はそうなってはいない、他者を尊重することや尊厳を守ることは、言葉で言うほど簡単ではない、ということなのではないかと思います。
「人はみな平等」といったところで、昨今の「貧困」や「格差」の問題を持ち出すまでもなく不平等は存在するし、「社会的弱者」と呼ばれる人はいる、とわたしは思います。
子育て支援の立場で言えば、子どもは間違いなく「社会的弱者」ですし、保護者の代表格である母親もしばしば「社会的弱者」の立場になることがあります。
元気な母親にも支援が必要
少子化が問題視されるまでは、児童福祉行政と言えば「保育」が主流でした。近年、「子育て支援」という新しい「支援」が登場したわけですが、この「子育て支援」は「保育」ではカバー仕切れない、母親と子どもの家庭内の課題についてサポートを行っていこうといった意識で始まった活動といってもいいと思います。そのため、支援の対象が“子ども”と“母親”になることが多いようです(“父親”や“家庭”を視野に入れていく活動ももちろんあります)。
障がい児や重い病気の子どもの家庭、外国人家庭、生活保護家庭、10代の出産育児の家庭、ひとり親等々、「まさしく」社会的な援助が必要な場合は当然ですが、そうした問題を抱えていなさそうに見える、元気な母親であっても社会的に弱い立場に置かれることは多い、とわたしは思っています。
「立派な大人であるお母さんが『社会的弱者』になるなんておかしいじゃないか」と言われる人も多いと思いますが、妊婦期の女性は間違いなく「保護される対象」ですし、新生児の子育てに追われる母親には必要な援助がたくさんあるのです。
妊娠期から出産、新生児の育児、乳幼児期の子育てへのプロセスがスムーズにいけば、その後がすごく楽になり、母親が「社会的弱者」と呼ばれる期間を短くすることができるでしょう。けれども現状では子どもと母親、彼らを取り巻く家庭まで視野に入れつつ、先々を見通した認識を持って支援を行う人や機関が少なすぎるため、その時々に必要な支援が提供でききれず、問題が深刻化してしまっている状況もあるように思います。
「子ども扱い」や「上から目線」に過敏に反応
一方、育児中の母親で、自分が社会的に弱い立場に置かれているといった認識を持っている人はさほど多くはないと思います。そのため、経験の乏しいうっかり者の子育て支援者が猫なで声で「お母さん、赤ちゃんと一緒にお遊戯しましょうね」などと子ども扱いした物言いをしたり、未熟な保健師が「お母さん、そんなこともできないんですか」と上から目線の紋切り型の物言いをすると「カチン!」ときたり、叱られたと勘違いし、激しく落ち込んだりしてしまうのです。
一方、そんな子育て中の母親と似たような体験を、わたしも病気で入院中にもしたと、感じました。20代の看護師に「そんなにくどくど言わなくたってわかってる」と思うようなことを何度も説明されて辟易したり(彼女は単に一生懸命なだけなのですが)、できたことができなくなり、やってもらうたびに「すみません」と何度も何度も言っている自分がどんどんと委縮していくのを感じたり、しまいには「大丈夫ですか?」と言われるだけで「放っておいてくれ!」と叫びだしたい衝動にかられるほどでした。
こちらが慣れない立場になってしまったことで、必要以上に過敏に反応してしまっていることもあるでしょうし、「相手がそう感じてしまう」ような対応を彼ら専門家が知らず知らずのうちにしてしまっているという部分もあるのだろうと思います。
居心地のよい関係を築くために
子育て支援の現場では母親を「子ども扱い」「上から目線」「支援が必要なかわいそうな人」扱いしてしまう部分があることは否めません。それは、「保育」の延長で子育て支援を始めてしまったための反省点でもあり、今後は母親や父親を社会人の一人として遇し、親として成長していくための教育的な支援や体系だったプログラムを開発していく必要があると感じています。
また、「病院」という場をどうとらえるのがよいのか一体験者の立場では悩ましいところではありますが、病院と同じようにたくさんの人が行き来する場であるホテルや銀行窓口、ファミリーレストランなどの接客態度と比較すると、「改善の余地はありそうだ」と思いました。病気だからこそなおさら、普段よりも気持ちよく過ごせるよう、環境整備には心を配ってほしいものです。
合わせて親や患者など子育て支援や医療、看護などのサービスを受ける側も心構えを変えるとだいぶ楽になるのではないでしょうか。「弱い立場」になったことを受け入れるのに少々時間がかかることもありますが、「今はそうなのだ」と納得することは大切です。
そして、上手に他者からのサポートの手を握りかえすこと。「やってもらって申し訳ない」といった気持ちが出てしまって、援助を上手に受けられないのはとてももったいないことだと思いました。そして、「これをやってもらえませんか」と具体的にお願いできるようになると、やりとりはさらに実りあるものになるでしょう。
当事者の本当の思いを聴く
言葉によるコミュニケーションがある程度できる場合は、相互の認識と態度を少し変化させることで、よりよいやりとりが生まれますが、子どもや言葉で意思を伝えることが難しくなってきた高齢者の場合などは、さらに高度な支援技術と体制が求められると思います。
子どもでも高齢者でもそうですが、食事や排せつ、着替えなどの「世話」をしていれば、援助や支援をしたわけではないと思います。まさしくそうした人にこそ、いかに「人としての尊厳」を守るのか、わたしたちはいったいどのような支援やケアができるのかということを考えなければならないと思います。言葉にはできないかもしれませんが、わたしたちが言っていることは聞こえていますし、その人自身が「こうしたい」という「意思」もあるわけです。
相手の立場に立つことを忘れ、自分がやりたいことをやって、「わたしはいいことやっている」と自己満足に浸ってしまい、その人の言葉にならない意思や思いを汲む大切さに思いも至らない支援者も多いなかで、それを実際にやりおおせることはさらに難しいことだと思います。でも、それこそが本当の「ケア」なのではないかと思います。
「ケアするとかしないとか、支援するとかしないとか、そんなことではなく、その人がそこにいるだけでいい。それがすばらしいことなのだ。」
たぶん、究極にはそうした境地にまで到達するのでしょう。目前の、わかりやすい目的と成果を追うだけの日常のなかでつい取りこぼしてしまう、そうした場や時間の中に、できることならば、わたしもいたいと思う昨今です。
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